CDジャケットについて考えた。

キリンジの「DODECAGON」をようやく購入。 ハイレベルで安定している良質ポップスを今回もたっぷり聴かせてくれる。3rdとか4thみたいに強烈に音に引きずり込まれるような派手さはないけれど、聴けば聴くほどキリンジワールドの深〜〜い部分に誘われていく感じ。繰り返し繰り返し聴いても全然飽きない。う〜〜ん、いいね〜〜。
ところで今回、なぜこんなにキリンジ新譜を買うのが遅くなったのか、というと実はジャケットがあまりいいと思わなかったからなのだ。それでついつい遅れてしまったというわけなのだ。

はい、こちらがそのジャケット。悪くはない。そう、悪くはないんだけど〜。それにもともとキリンジはそれほどアートワークが洒落てるというわけではないし、というより寧ろ垢抜けなさがいつも漂っている方だと思うんだけど*1、そしてそれがまたよい味を出していたりするのだけれど、今回のは垢抜けないというより、どうも居心地が悪い感じがする。ずーっと観ていたくないような・・・。巷ではどう評価されているんだろう??
何がそう感じさせるのかというと、その理由ははっきりしていて、明らかに「色感」が悪いのだ。キリンジが心地よいだけの音楽ではないということを表現しようとしているのかどうなのか?? でももう少し心地よい色合いにしたっていいじゃん! Art directionは相当有名なところがやってられるようなのでそんなところに注文つけてどうすんの?お前という感じだがためしにこのジャケをモノクロにしてみると

ほら、絶対こっちの方がいいって! つまりは色の問題なのだ。モノクロじゃ地味というのならもう少し暖色系で攻めてみたらどうだったんだろう。
とまぁ、なんだか勝手なことを言ってるけどアルバムの中身の方は素晴らしいので皆さん是非購入して聴いてください。


キリンジのCDジャケットについてもう少し述べると、二人の顔写真のアップを使ったものがこれまでにも数枚ある。ジャケットにアーティストの顔写真を断固として使うというのではハロー!プロジェクトが有名だが*2ハロー!はアイドルということで顔を露出させるという昔からのアイドルの伝統を踏襲しているといえるのだろうが、キリンジの場合はもうあまり顔のアップにこだわらなくてもいいのではないだろうか? それとも泰行氏が自身のソロアルバムでかぶりものをしていたためどうしてもだしたかったのだろうか? もし次回どうしても二人が顔写真にこだわるようなら

これぐらいにしておく方がいいと思う。


何が言いたいのかというと、顔写真どアップジャケットというのは意外と買いにくい、ということなのである。ファンはどんなジャケでも文句いいながらでも買うし、その人のことが好きなのだから顔アップは寧ろ嬉しいものなのだろうけれど、そのアーティストのことは良く知らないけれど試聴したらなんか良さそうだったとか、名前は以前から聴いていたので新譜も出たことだし一度聴いてみるかという人にとっては顔どアップジャケはせっかくの購入の決断を躊躇させる作用があると思う。ジャケ買いというのがあるが、顔どアップジャケのジャケ買いというのはあまりないのではないだろうか???
実は私はハロー!プロジェクトのファンでもあるのだが、一推しの人のCDはどんなにセンスの悪いジャケでもぶつぶつ文句言いつつ購入するのだけれど、普通に好感を持っているハロメンのジャケがいくら可愛くても顔どアップだと実はちょっと躊躇するのだ。それをレジにもっていく勇気をなくしてしまうことが多々あるのである。逆に、これなら買ってみようと思うものは全身写真を採用したものだ。制服を着用しているものなら尚嬉しいが、それは単に趣味の問題だろうか?


さて、そしてついにハロー!プロジェクト作品でジャケ買いをしようと思う作品が出てきた! 

僕らが生きる MY ASIA

僕らが生きる MY ASIA

この小さな画像で観る限りではかなり良さげなので来週の発売日が楽しみである。

*1:「drifter]のPVあたりからかっこよくなってきたなぁという印象だったけど、その後もいろいろと試みながら全体として垢抜けていない印象あり。

*2:オムニバスものなどは何十人ものアーティストの顔を合成で貼りあわせて構成する徹底振り。イージーでセンスの悪いジャケットを作ることで定評がある。勿論多少の例外はあり

Hello!Project 2007 Winter 〜 エルダークラブ The Celebration 〜(大阪公演昼の部2007年1月13日)

上記のコンサートに行っておりましたので遅まきながらレポ(めいたもの)を。ネタバレしてますのでネタバレ回避のかたは目を通されない方がよいかと思います。


最初は全員が晴れ着姿で登場。「All for one, one for all」は大好きな曲なので早速気分が高まってくる。引き続き全員で後藤さんの3rdアルバムからの曲「来来!幸福」を。おめでたい賑やかなムードに会場がつつまれる。晴れ着を着ているっていうことで日本舞踊風味のふりつけなんかもちょこっとはいったりして面白い感じ。ただし、晴れ着を着ているのでせっかくのダンス曲で派手に動けないというじれったさも。
その後は安倍さんを筆頭に出演者がそれぞれの持ち歌を順番に披露していくという形。勿論何人か入り乱れてのパファーマンスも何曲かあるんだけど、概ね出演者それぞれ、個々の見せ場が順番に用意されているという展開になっている。なんつーか、ハロプロ品評会というか…というのはちょっと違うなぁ・・・文化祭的?(例年行われているハロプロの文化祭ではなく一般的なもの)あるいは“発表会的”というか、そういった印象を受けた。昔のハロコンがこんな形だったらしいけど、自分はいわゆる“カラオケコン”になってからの2005年お正月コンからハロコンに参加しだしたので、そのへんのことはよくわからない。カラオケコンから参加しだした人間としてはそれほどカラオケコンに関しての拒否反応もなかったのだけれど、歌い手が自分の持ち歌を歌っているというのは確かにスムーズに観られて、知らない曲も実際のところたくさんあったのだけれど、それぞれの歌い手が自分の大切な曲を歌っている姿は説得力があって、なにか“発見”みたいな気持ちでじっくり聴く事が(観ることが)出来たように思う。それもただ昔のハロコンの形に戻してというのではなくて、数年間のカラオケコンを経ての試行錯誤があった結果としてのこの形であることが良い結果を生んでいるのかなと思ったりもする。
とまぁ、そんな分析めいたことは実のところどうでもよくて、特に印象に残ったことを記しておくと、まっつーの歌声が圧巻だったということと、雛壇で隣同士のごっちんとなっちが終始楽しそうで、観ていてとても幸せだったということと(まっつーの「メロディーズ」で嬉しそうにフリ真似する二人!)、後藤さんがサイボーグ(!)みたいだったということだろうか。
最後の件に関しては、まじでキャプテンストライダムの「サイボーグ」の歌詞が脳内リピートされるほどだった(アナタはサイボーグ〜〜♪・・・ アナタは最新のモデル〜♪このごろはテレビにも出る〜〜♪)。ダンスの切れがいいという次元ではなくて、なにか早送りしているかのようなスピード感というか、たたずまいからして凶悪な女サイボーグが突如舞台上に現れて駆け巡るかのようなダイナミズムさ!
そんな後藤さんと、あっちゅん、里田、あやか、4人での「ガタメキラ」が物凄くかっこよかった。今回のベストアクトはこれ!いやぁ〜みなさん、新年から本当によいものをみせてくれますなぁ〜〜。


惜しむらくは後藤さんのソロである「ガラスのパンプス」と「SOME BOYS!TOUCH」の振り付けが今ハロコン仕様になっていなかったこと。「ガラスのパンプス」のほうは、里田とあやかがバックでがんばってくれていたけれど、「SOME BOYS! TOUCH」の方にはバックがつかない。尤もこの一人バージョンも決して悪くはなく、ここでも後藤さんのサイボーグぶりは十分に堪能できるのだけれど、でもやっぱり「SOME BOYS! TOUCH」のダンスというのは男性ダンサーさんとごっちんの3人が揃って初めてなりたつダンスであって(いわば仏像でいうところの阿修羅像とか金剛夜叉明王像の如き完成形なのだ!)、ごっちんが一人で踊るのであればまったく別の振り付けを考えてもよかったのではないかなぁ。ごっちんならおお!と思わず声を出してしまうような凄い「SOME BOYS! TOUCH」ハロコンver.ダンスをみせてくれたはずなのだ。

久々にゴダールの60年代の映画を

十三の第七藝術劇場で開催されている「BOW 30th 映画祭 in OSAKA」にてゴダールの「ウイークエンド」を観る。この作品はかれこれ20年以上前にどういう上映形式だったかすっかりわすれてしまったけれど(ビデオでなくフィルム上映で観たのは確か)観たことがあって、長い間、これは“停滞”に関する映画だと思い込んでいたのだけど、今回見直して、後半が結構ショッキングな展開だったのにちょっと驚いた(だって、カニバリズムだもんなぁ)。
この後半のことをすっかり忘れていたのは、前半の“停滞”を表す、有名な道路の渋滞シーンがあまりにも印象的だからだろう。なにしろ、300メートル、54台にものぼる渋滞状態を延々と長まわしの移動撮影でとらえているのだ。そこではクラクションがひっきりなしに鳴って、いらいらしている人もいれば悠長に待つことにして、前の車に乗っている子供とキャッチボールをしたり、車を降りてゲームをしたりしている人までいて、でも主人公のミレイユ・ダルクとジャン・ヤンヌの車がずるをして割り込もうとすると人々は怒って、彼らを決して割り込ませない。結局、ミレイユ・ダルクとジャン・ヤンヌはずっとずるをして、反対車線を走って、それをカメラがおっていき、渋滞の先にはぺしゃんこになった数台の車とごろりと転がっている死体があって、二人の車はそこをさっさと通り過ぎると右手に曲がって横道を疾走していく。
でもって、二人の車が街中を曲がってトラクターとすれ違う。カメラは二人のほうしかうつしていないけれど激しい音がして、次の画面では若い男性が車の中で血まみれになっていて衝突したらしい。女が降りてきてトラクターの運転手をののしり、女と運転手が口げんかを始め、その間、近くに居た人々の顔のアップが何度も挿入されて、車を出そうとするミレイユ・ダルクとジャン・ヤンヌに知らん顔していくつもりかと女と運転手が詰め寄り、無視されると二人は同士となって肩を組むばかばかしさ。さらに偽の記念写真だったか、なんだかそんな文字がはさまれて、そこに居合わせた人々が記念撮影風に何事も無かったかのように一緒に映し出される。そのぬけぬけとしたギャグセンスが最高に面白い。
“停滞”の映画というのは、“渋滞シーン”のほかにも、ミレイユ・ダルクとジャン・ヤンヌの目的が一向にうまく進まない展開ゆえでもある。私事になるけど、私がよくみる夢というのはいつもこのパターンで、行かないといけないところになかなか行けなかったり、そこへ行くために用意しなくてはいけないものをなかなか用意できなかったりするというものがやたら多い。もしや、若き日に観たこの映画が思った以上に意識下に潜入していたとか・・・
ともあれ、すっかり記憶から消えていた後半の展開は“停滞”というよりは“迷宮”と表すほうがふさわしい。これが結構怖かった。’80年代に観たときは多分、ゴダールはラストに“御伽噺”という言葉を使っているけど、そんな風な目で見ていたのかもしれない(ので記憶からすっぽり落ちてしまっていたのかもしれない)。でも、今はもっとリアルな感じで迫ってきて、現実に思いをはせ、妙に気分が悪くなってくる。
それにしても森の中でドラムを叩いて、そのビートに合わせて発せられる政治的アジテーション(?)の響きが持つ格好よさといったらどうだ!


悪趣味ともいえる残虐さと、猛烈にユーモラスなギャクセンス、久々に映画観てぐったり疲れた。上映が終わった映画館全体がぐったりといった感じだったなぁ。

「笑っていいとも! テレフォンショッキング」に後藤真希(2007/1/11放送)

chori2007-01-12

ブログっちん(http://blog.gotomaki.net/?eid=237843)にて今日のテーマは“お人形”と本番前に予告があった模様。確かにこんなロシア風の帽子をかぶった人形ってあるなぁ。カラーコンタクトをしてなかったのは個人的には嬉しい。だってさぁ、ごっちんって日本人離れした西洋的な顔立ちをしてるけど、でもやっぱり東洋的でっていうところが魅力なのだから、カラーコンタクトして西洋人ふうになりきってしまわなくてもいいと思う。でも勿論、お人形さん風ファッションはもの凄く可愛かったですよ。化粧も薄めで良かったし(実際そばにいると「口紅の色さえうるさい人だったけど〜♪」とうっとおしがられるタイプですな、私)。


トークの方は
( ´ Д `)<プロですね
など要所要所でいい感じの発言が出ていて、前回、4年前に出たときよりもタモリさんとの会話もはずんで良い感じでした。CMあけがやたら楽しそうだった。


1/100ゲーム(該当者がたった一人という設問を考える)では「11時半ごろ更新したブロッグっちんを見た人」というものでしたが、残念ながら0人。ずっこける後藤さん。しかしこのあと狼などちらっと覗くと後藤真希ブログに人が殺到したようでなかなか見られないような状態になっていたよう。宣伝にもなってよかったのではないでしょうか(笑)。
お友達紹介はなっち。なちごまキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!! と思ったら安倍さんは移動中で飛行機の中ということでマネージャーさんが代わりに応対。なちごまの会話が聞けなかったのはかなり残念だけど、なっちのマネージャーさんが村上さんだということはまぁ知っていても無駄にはならないでしょう(?)。


さて、本日は安倍なつみさんが登場。後藤さんからの伝言は「寝相はよくなりましたか?」。ごっちんから出るなっちの話題は「寝相」とか「寝起き」とかあるいは「時間が来てるのに起きない」とかやたら寝てることに関する話題が多いような気が(笑)。寝相の話しでまず盛り上がってタイでのお話しと続いてこちらも楽しく見られました。

◆「地獄のババぬき」(上野宣之/宝島社文庫
「地獄のババぬき」の作者、上甲宣之は第一回「このミステリーがすごい!」大賞において、「そのケータイはXXで」でインターネット読者投票第2位に選ばれ、隠し玉として出版デビュー。その「ケータイはXXで」に登場し、村に訪れた娘を“生き神”として死ぬまで座敷牢に監禁するという忌まわしき伝説が伝わる阿鹿里村から壮絶な帰還を果たした女子大生がこの「地獄のババぬき」でも主人公となっている。私はこのXXという作品は読んでいないのだが、別に読んでいなくても十分楽しめる作りになっている(上にXXを読みたくさせる方式になっている)。
阪急梅田駅の高架下にあるバス乗り場から出発した長距離バスがバスジャックされ名神高速道路の大津サービスエリアで警察の封鎖にあい停車。と、関西に住むものにはえらく身近なロケーション。
車内では生死をかけた“地獄のババぬき”が行われようとしていた!!
そのババ抜きに望む面々が、西尾維新戯言シリーズを彷彿とさせるような濃い〜〜〜キャラたちなのだ。霊媒占い師、伝説の賭博王、マジシャン、殺人鬼、深層心理に詳しい有名大学の現役女子大生などなど、(最後の一人を除き)こんな人たちが乗っている深夜バスには絶対のりたくないものだ。ちなみにそのうちの一人“義眼男”は攻殻機動隊のバトーの外観を想像して読んだらえらくかっこよく思えてくることうけあい。
西尾維新的な、なんていってたら出てくる女子大生の学校が立志館大学となっているではないか(戯言シリーズいーちゃんは“鹿鳴館大学”)。これらが京都にある同じ大学を指しているのは明らかで、そこまで同じとは、と思っていたら、作者の上甲宣之氏も立命館大学出身なのだそうだ。
尤も、キャラの濃さという点で西尾維新を引用しただけで、本作品が西尾維新の亜流かといったら全然そんなことはない。寧ろ登場人物たちは実に素直でいーちゃんのようには屈折しておらず、どんどん作者の思う壺にはまっていく。さらにFM放送のリスナーの語りとして挿入されるサイドストーリーも不気味で面白い。
命をかけてこれまでババぬきをしたことがなかった私(大概の人はそうだろうと思うが)には目から鱗、カードにこめられた人の体温だとか、人の鼓動を聞く耳とか、これ以上書くとねたばれになってしまいそうなのでやめておくが、勝ち抜くための必殺技の数々にはただただ呆れ・・・じゃなくてその奇想天外な想像力にただただ呆れ・・・じゃなくて、ただただ恐れ入ってしまったのだった。


◆「いつか王子駅で」(堀江敏幸/新潮文庫
昨年末からちょっとづつ読んでいた「いつか王子駅で」を読了。都電荒川線沿線を舞台に、実務翻訳の仕事をしたり、週に一度学校に教えに出かけたりしている「私」の日々の生活を描きつつ、電車や競馬、文学についての思いがからめられていく。小説のようなエッセイのような批評集のようなそんな体裁でたんたんと読ませつつ、時に、実に鮮やかな景色となってスピーディーに走り出す文体に魅せられ、蒼然と目の前に広がる景色に胸のすく思いがする。


◆「支那そば館の謎」(北森鴻/光文社文庫
副題に“裏(マイナー)京都ミステリ”とあるように、京都嵐山の奥の奥にある大悲閣千光寺の寺男が、寺の周りに起こる事件に挑む連作短編集。この寺男が元裏家業の怪盗で、ドアなどもなんなくあけてしまったり出来る人物なのだが、本来なら“密室”トリックになりそうなものも、逆にドアを開けてしまって密室でなかったことになるというような逆説的な部分があって面白い。他にも、京都人のけちくささから来る名刺ネタとか、町屋とか、京福電鉄とか、京都ならではの事物が、うまく事件にからんできて(と、これ書いてもネタバレにはならないと思うんだけど)、京都好きにはお薦めの一冊。
ちなみにこの大悲閣千光寺というのは実在するお寺らしい。大悲閣千光寺の住職が解説を書いておられるのだが、最初、これも作りものではないかと疑ってしまった。
さすがにそこまで凝った作りではないらしく、ちゃんと実在するお寺ということなので、いつか訪ねてみたい。途中で遭難しないように気をつけながら。




あ〜、餅を食べ過ぎて死にそうです。
エルダーコンはネタバレしないで行くつもりだったのに、超意志が弱いせいで結局あちこち巡回してしまった。まあこればっかりは実際観てみないとなんともいえないので、大阪公演当日はのんびりと座って鑑賞してきます。

正月読書日記。

chori2007-01-07

お正月はひたすらババぬきをしていた。それもど真剣に。「さぁ、最後の2枚、一枚はジョーカーだよ。君はどちらをひくのかね」「ふ、私がひくのはこちらだ!」「むむ〜!なぜわかった!?」「君の目の動きを読んだのだよ。一瞬ジョーカーに目をやったね」「くっそ〜、無意識にジョーカーを見ていたとは! 次は絶対見ないぞ!さあもう一回だ!!」
とまぁ、こんなふうにお正月らしく百人一首とかでもすればよいのにババぬきをしていたのは元旦に「地獄のババぬき」(上野宣之/宝島社文庫)を家族1が読んだせいだ。本自体を買ってきたのは私なのだが、私は先に北森鴻の「支那そば館の謎」(光文社文庫)を読み始めていたので先に家族1が読むこととなったのだ。物凄い勢いで読み終えた家族1は小説自体は普通の出来だが、猛烈にババぬきがしたくなった、あなたも絶対ババぬきがしたくなるので早く読めという。自分で買ってきておいてなんだが、これが新年早々読むのに相応しいものなのかと首をかしげながらも、とりあえず支那そばを後回しにしてババぬきを読み終えた私の手には既にトランプが握られていた・・・。

あけましておめでとうございます。

シュール画伯の“キモい絵”(笑)に無謀にも対抗して絵を貼ってみる(今年の年賀状ね=猪に見えないと言われたわ)。
昨年末に2006年総括的な文章とかご挨拶とかを結局書けなかったので、年始の挨拶くらいはきちんとしておかないと、と思っていたら元旦もあっという間に過ぎ去ってしまいました。元旦に届いた年賀状の少なさに愕然。年をとればとるほど知り合う人の数も増えて賀状は増えていくものと思っていたのは遠い昔のこと。ここ数年はその数がどんどん減っている。なにしろ、去年なんて、元旦に年賀状書いていた始末で、その前の年も、その前の年も似たような状態で、ここ数年の自分のいい加減さがこの数字となって現れたのでしょう。とほほ・・・早い話が自業自得ですな。しかも元旦に近くの神社に初詣に行って、いつもはひかないおみくじを何を思い立ったかひいてみたらとか。「あせればあせるほど物事が悪い方向へなんちゃらかんちゃら」とか。 みなさん、このめでたい新年にも神社はちゃんと「凶」を用意してくれてるよ〜〜。信用してひくといいと思うの。


そんなわけで、今年は気を引き締めて、おみくじが予言してくださるように最後には幸の現れる一年としたいと思います。今年も後藤真希さんを全力で応援しつつ後藤さん以外のもろもろにもばしばし触れていく雑念エンタテインメント日記をどうかよろしくお願いいたします。



↑ついでに調子に乗って過去の年賀状もアップしてみる。小津風(笑)。