「シンセミア 上下」(朝日新聞社)

阿部和重の「シンセミア」をやっと読了。といっても、最初、ちょっととっつきにくくて、何度も本を閉じたりしたのだが、id:yukodokidokiさんが、以前コメントをよせてくださっていた通り、ある地点を越えると、いつの間にかどんどん引き込まれて、私もこの長編を夢中で読んでしまった。 
 山形県神町という一田舎町に起こった奇妙な3つの事件を発端に、怒涛の結末へとなだれ込んでいく物語は、背景に後ろ暗い、町の政治的歴史的背景をうかびあがらせつつ、今現在そこに住む複数の(かなりの数の)住民たちの営みを活写していく。登場するのは、青年団と名乗りながら、実は盗撮サークルを組織している青年たち、ロリコンの警察官、過去の誘惑から逃れられず薬に頼る主婦、男の俗なる欲望と愛を勘違いしている女ども、悪徳政治家、町の権力者、ストーカー、等々・・。いわば、“邪悪なパニック小説”とでも呼ぶべき面白さ。
 これまでの阿部作品と同様に、登場人物たちは概して思い込みが激しい人ばかりだが、彼らが窮地に追い込まれていたり、あるいは、崩壊が傍からは見えていたりする環境にあるにもかかわらず、ほとんど全ての人が“どうにかなるだろう”と根本的に楽観的であることが興味深かった。このあたりは、「危機管理能力がない日本社会」を暗喩しているかのよう。また、一組の夫婦(田宮博徳、田宮和歌子)が、互いの溝を感じ合っていて、東京行きや、神町を襲った大雨による浸水を経て、若木山に駆け上った夫婦がそこで心情を告白し、妻は、その時に見た鳥を覚えており、後に鳥の図鑑を見て微笑んでいるという、本作唯一(?)の感動的シーンが展開される。こうして夫婦の仲が良い方向に向かっていくのかと思いきや、、その後二人が何をするかというと、妻がピニールにはいった白い粉を見せて、二人でそれを吸い込むのであった。おいおい、違うだろう!そうじゃないだろ!とつっこみたくなるような、人を喰ったような展開に邪悪なユーモアを感じさせる。
 ところでもう誰かがとっくに指摘していることかもしれないが、この「シンセミア」には、くらもちふさこのマンガ「天然コケッコー」の影響が色濃くあるのではないだろうか。「シンセミア」に大鼠の視点で語られる章がある。これを読んでいて、「天然コケッコー」の14巻(最終巻)における第68話“にゃんこ見聞録”を思い出した。恋人の大沢くんが東京に行ってしまって帰ってこないという最中での、主人公、そよと、その周辺の暮らしをあえて、そよんちの飼い猫の半日の行動を追うことで描いた一篇である。「シンセミア」では、鼠が語り手になるのに対して、“にゃんこ見聞録”の方は、別の(作者の)視点が猫の行動を追うというものなので、ニュアンスは微妙に違うのだけれど、「シンセミア」で突然ねずみの語りが出てくるのは、この「天然コケッコー」の影響がかなりあるのではないかと私は思うのであ〜る。
天然コケッコー」というのは、「シンセミア」とは田舎が舞台という以外は、ほとんど共通点はないように思える、ほのぼのカントリーライフマンガだ。物語の中心は、地元の娘、そよと東京からの転校生大沢くんの恋愛なのだが、展開は実にのんびりしていて、時にはそよと大沢くんがほとんど登場せず、村の幼い小学生二人のエピソードだけの一話があったりする。また、まったく同じ日の同じ出来事を一話は、大沢君の視点から描き、さらにその次の回にそよの視点から描いて見せたりする。このマンガが連載されたのは「コーラス」という月刊マンガ誌であり、つまり、一ヶ月待っても物語はまったく時間が進んでいないという、驚くべきスローライフコミック(!)ぶりなのである。
 勿論,「シンセミア」は夏の数ヶ月を描いた怒涛の“パニック小説”であるから、物語の性格は全く違うのだけれど、田舎という舞台と、そこに生きる複数の人々を描くという点で、共通点も多い。
実際、阿部和重自身が、その昔「’90年代J文学マップ」(文藝別冊1998年8月号)で、くらもちふさこ(とあだち充)のマンガにとても関心があり、「タッチ」や、「天然コケッコー」にふれて、“つまり、この二人の作家は、時間と空間をより具体的に把握していて、出来事を構成している複数の層を的確に捉えている」と語っているのだ。
その方法論を数年後、この長編「シンセミア」で試してみたと言っても、まったく的外れなことでもないだろう。「天然コケッコー」にも豪雨による川の氾濫も出てくるし、「シンセミア」における田宮博徳、和歌子夫妻の東京行きを大沢君とそよの修学旅行とだぶらせてみるのも面白いかもしれない。