「ニッポニアニッポン」(阿部和重/新潮文庫)

私が、阿部和重にシンパシーを抱くのは、氏が後藤真希ファンであるということがまず第一の理由なのだが、もう一つの理由として、氏もかつて、ブルース・リーであったということがあげられるだろう。「101匹ドラゴン大行進」というカンフー映画に関する研究本(?)に、「かつて、クラスに一人必ずブルース・リーがいた」という一文が記されており、「燃えよドラゴン」を観て、ブルース・リーにかぶれて、ブルース・リーになりきっている生徒の存在を示唆しているが、私自身もブルース・リーであった一人で、実際、当時「ドラゴン」というあだ名までつき、やがてそれは「ドラ」と略され、まるでドラ猫の省略形のようになってしまったのだが、体育の時間のダンスの音楽にラロ・シフリンの「燃えよドラゴン」のテーマを推して、却下されたという哀しい過去を持っている。阿部氏も、]「映画覚書 vol.1」(文藝春秋)の中で、“ちなみに私は小学4年生か5年生の頃に通信販売で購入した『死亡遊戯』のトラックスーツのレプリカを着て小学校に通っていた経験があるが”と語っており、さすが、やることが違うものだなあと感銘を受けつつ、今では「キル・ビル」でのユマ・サーマンの格好と言ったほうがわかりやすいであろうその姿で通学している小学生を脳内再生してみるのである。
今回読んだ「ニッポニアニッポン」では、主人公がストーキングするヒロインの名前本木桜が、CLAMPの「カードキャプターさくら」の主人公、木之本桜にちなんでおり、後半に出てくる女子中学生は瀬川文緒は、アニメ「おジャ魔女どれみ」の瀬川おんぷに由来しているという(斎藤環氏の解説より)。阿部和重は、こうしたアニヲタ的部分、ブルース・リーである部分、あるいは、後藤ヲタであるなどというその自分の嗜好を文学という形に消化してみせる作家として私は認知している。しかし、決して、それは文学的戦略でもなければ、文学への挑戦でもない。自分自身に湧き上がる嗜好を表現する手段として、単純に文学を選んだということなのである。
前に読んだ「インディヴィジュアル・プロジェクション」は○○○○者の話で(ねたばれ回避のため伏字)、今回の「ニッポニアニッポン」もある意味「人格障害」という言葉を連想させる“ひきこもり”ティーンエイジャーが、主人公である。いかにも現代的テーマを扱っている感じがし、中には、現代の若者の闇を描いた小説などと称する人もいるだろうが、これらの小説は多分に私小説的である。「文藝」2004夏号「阿部和重」特集で、例えば「インディビジュアル・プロジェクション」にでてくる怪しげな武道塾のようなものは、実際、阿部氏が中3の時に商店街の怪しげなおじさんに空手を習っていたことがヒントになっていること、高校を中退して遊びまわっていた阿部氏を心配したご両親が、「お前は東京で一人で暮らしなさい」と言って、氏を“おん出した”というエピソードが語られ、「ニッポニアニッポン」の少年は阿部氏であったのかと思わせるのである。さらに、そのエピソードにおいては、「17歳の誕生日の9月23日に東京に出てきた」と続けられる。きっと氏においては、新たな人生のスタートとなったその境遇を「17歳の誕生日の9月23日にモーニング娘。を卒業した」後藤真希とをダブらせているに違いないと私は確信している(ちょっと羨ましいぞ!)
 それでも氏の作品は、いわゆる日本文学伝統の私小説とは違っている。おそらく、小説に描かれているキャラクターは作者よりもちょっと“ ばか”という設定がなされているように思う。なぜそんなことを思うかというと、阿部氏は、自分が描く登場人物にばかばかしい三段論法を使わせ、強引に話しを進めていくからだ。物語の飛躍を、主人公の激しい思い込みというかたちで、どんどんと進行させていくという手法をとっているのだ。それゆえに物語はスピーディーであり、とかく登場人物たちは、居直ったり、切れたりする。「インディヴィジュアル・プロジェクション」では主人公が逆切れしたり、居直ったり、とんでもないときにカラオケ行きたがったりというはちゃめちゃな記述が突然文中から立ち上がってくるさまが可笑しくてくくくと笑いながら読了したが、今回の「ニッポニアニッポン」でも、主人公は反省することも、立ち止まって熟考することもしない。しかし、主人公がトキに夢中になる過程は、対象が違うだけで、例えば、それは、映画「東京ゴミ女」のヒロインが、好きな男の出したゴミを漁るのを日々の楽しみにしているのにとても似ていると思う。はたから見たら不毛なものでも、不毛だからこそ、人間を夢中にさせるものは確かに存在する! 他人から見たら暇つぶしにしか見えないものが生き甲斐だったりするのだ。君も私も少なからず心当たりがあるだろう!? 
 おそらく、最後に出会う女子中学生以外には、煙たがられる存在でしかないこの「ニッポニアニッポン」の主人公の根底に「ピュアな感じ」が流れていることを感じさせる手腕にも関心させられた。