「2046」

chori2004-10-27

三番街シネマで鑑賞。物凄く気に入ってしまいましたが、大絶賛されてるというわけではないみたいですね(というよりはてなでは否定的な意見の方が多いようです)。私的には、今年のNO.1だ!なんて思って、感動にうちふるえて、エンドロール終わってもたてなかったくらいよかったです。とにかくせつなさを描かせたら本当うまいんだよ、この監督は。ウォン・カーウアイ作品の面白いところは、アート映画としての魅力とスター映画としての魅力という一見相反しているように見える要素が、見事に並立しているところで、例えば「楽園の瑕」なんて、スターのアップ、アップ、の連続で、とにかく綺麗にかっこよくとってくれるので、見ていてうっとりくらくらっ!ときちゃうわけです。今回も美男、美女のアップアップでみとれまくりですよ。この面子を揃えられるというのもやはりウォン・カーウァイ監督の力量なんでしょう。木村拓哉もこの面子の中で全然見劣りしないどころか、その眼光の力ってんでしょうかに圧倒されましたね。この映画はSFとして宣伝されていますが、本当の時代設定は、1960年代の香港で、そこで、官能小説を書いてお金を稼ぎながら、自堕落で享楽的な生活をしている作家(トニー・レオン)が、自分の周りの人間を登場させて「2046」とか、「2047」とかいうタイトルの官能SF小説を書いているというお話しで、テレビの予告編に流れている部分は全てこの小説の部分にあたります。ですので、全篇、SFと期待してみたら、がっかりするかもしれないし、また、ウォン・カーウァイ監督の前作「花様年華」を見ていなければ意味不明な部分もあるかもしれない。でも、この全篇の中のほんの一部にすぎないSFシーンが絶妙な挟み込みかたで、フェイ・ウオンが、ロボットなんですが、かなり長時間使われているために、機能が衰えていて、反応が非常にあとになってからしか出ないという設定になっていて、抱擁をうけてから、10時間ぐらいしてから、体をくねらせたりするという、こんな発想他に誰がするかよ、というユニークで、エロチックな場面があり、さらには、そのロボットが、恋の告白に返事をしないのは、それは機能が衰えているせいなのか、それとも、という展開には心底しびれました。カリーナ・ラウのアンドロイドが、虚ろな表情から、ぱっと快活な表情にかわりこちら側へ、ぐいぐい歩いていく姿に軽く衝撃をうけ、ホテルの看板の横で憂いている人(それはあるときは、フェイ・ウオンで、あるときは、チャン・ツィイーで、あるときは、トニー・レオンで、あったりする)という画の持つ美しさ、横長の画面の半分を真っ黒にして右半分だけを映し出したりするクリストファー・ドイルのカメラ、“気だるく煙草の煙をくゆらせるフェィ・ウオン”という画のバリエーション, など全部にメロメロです。
そんなふうに好きな場面は一杯あるのですが、チャン・ツィイーがね、また切ないんですよ。気が強く、自分が指導権を握りたいのに、プレイボーイのトニー・レオンにいいように弄ばれて(という表現は正しくないのかな?)、それでも彼の事を好きであることをおさえられないという、まあいわばよくある役柄ではあるのですが、すっかりのめり込んで見てしまいました。この映画は何度も何度もクリスマスイブのシーンが、一年後、二年後のイブみたいな感じで何度も出てくるのですが、このあたり、スピルバーグの「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」を思い出したりもしました。つまりイブというのは、欧米では家族や恋人とゆっくり過ごす時間であり、その日に一人でいるというのは物凄く孤独なものであるらしく、「キャッチ・ミー〜」では、3年づつけてイブをひとりぼっちで過ごす、ディカプリオと、トム・ハンクスを描くことでそれぞれの底なしの孤独を浮き上がらせていました。「2046」においても、香港が英国の統治下にあって、イブというのは同じような意味合いをもっているのか、イブの日のエピソードが繰り返され、とりわけチャン・ツィイーが、一人、(香港にはその時いなかった)トニー・レオンに会えるのを期待して店の片隅に座っているショットが、もうせつなくてせつなくて・・・。
トニー・レオンのいい男ぶりは、あえて書くまでもないでしょう。とにかく、この映画は、恋愛映画の王道、究極のメロドラマ、誰が何と言おうと大好き!です。