「トゥルーへの手紙」(http://www.alettertotrue.com/)

「ピーへの手紙」
私はピーに手紙を書こうと思う。セキセイインコに手紙なんて変だと思われるだろうけど、彼はうちに来てまだ5年目の幸せの青いインコなんだ。一見癒し系だけど、本当は卑しい系で、IYASHIKEIとうって嫌死刑と変換されるうちのPCは病んでると思う。ブルース・ウェバーの「トゥルーへの手紙」を観て、そっくり真似をして書いているわけなんだけど、とっても素敵な映画だったよ。海の傍の大きな家でのびのびと暮らす犬や猫たちと、彼らを気遣う飼い主のブルース・ウェバー。小さな命を大切に思う気持ちが平和を願う心となってそこから発信された映画がまたそれを観た者の心を打って、家にいる小さな動物の幸せについて改めて思いを深めてくれる。そして彼等を守るためにも世の中平和でなければならないとダイレクトに思う。
ブルース・ウェバーは大好きな写真家で、写真集も一冊だけ持っている。1983年に刊行された“Bruce Weber”という作品で、日本に紹介されたのはもう少し後だったように思うけど、東京に遊びに行った時どこかの洋書店で見つけて、当時の自分には高級な買物だったけれど、今買わなければ後悔するぞ!と思い切って購入して、重い本抱えてうろうろしていた思い出があるよ。宅配便で送ってもらうなんて考えはまったくなかったし、amazonなんて便利なものもなかった時代の話だ。
そんな彼が好んで撮り続けた男性美が、この映画の中でも、動物たちと並んで美しく表現されている。
 ところで私たちの世代は幼い頃に学校の先生に、なぜか「戦争を知らない子どもたち」という歌をしょっちゅう歌わされたものだが、私が初めてじかに戦争について触れたように思ったのは1991年の1月19日のこと。午前零時ころ、当時イギリスのケンブリッジにいた私たち家族は、テレビで、フットボール(サッカー)の中継を見ていた。チェルシートテナム・ホットスパーの対戦。まだ、プレミアリーグという形ではないころの、地上波で中継が見れたころの話だ。試合が途中で中断され、湾岸戦争が始ったという臨時ニュースが流れ始めた。ニュースは延々と続きサッカーの中継の再開はなかった。楽しみにしていたサッカーの試合が観られなくなったことは一大事なのだけれど、戦争勃発という大きな問題の前では、サッカーの中継が中断されたことを嘆くのはどこか許されないものがあった。つまりは戦争というのはそういうものなのだ、と思った。ささやかな楽しみ、いや、人によればそれが生き甲斐の楽しみとしても、戦争という大きな出来事の前では、そんなもの、そんなちっぽけなもの、不謹慎な考え、何が大事なのかことの判断が出来ない、など、“サッカーを観る楽しみ”は、まるで罪悪のようなものにとって変わる瞬間。日々の歓びを歓びとして生きていけない、それが戦争なのだと。
 ここのところ、偶然にも立て続けに戦争を扱った作品を続けて観る機会があった。「トゥルーへの手紙」とテレビドラマ「火垂るの墓」とゴダールの新作「アワーミュージック」。「火垂るの墓」では、アニメ版ではただ悪役であった親戚のおばさんの役をより掘り下げて描いていた。優しいおばさんが、鬼になっていくさまを松嶋菜々子が熱演しており、もう少し髪振り乱した感じでやってほしかった気もするのだが、少年に向かって「これが戦争なのよ!」と冷たく言い放つ松嶋のセリフが印象的だった。ゴダールの「アワーミュージック」は、冒頭の戦争のイメージをコラージュした「地獄編」を始め3つのパートでなっている作品で、第2部でサラエヴォの学生に招かれたゴダールが講演会で「努めて物事を見ること。努めて物事を想像すること。前者は“目を開けてみよ”、後者は“目を閉じよ”ということだ」と語っている場面がある。
この場面は講演の一部がまるでハイライト的に刻まれるだけで、決してこの言葉がメッセージとして上げられているわけではないのだけれど、今の日本人にとって一番耳を傾ける言葉ではないかと自分はそんなふうに受け止めてしまう。今、日本になによりも欠けているのは、想像力だと思う。自民党に大勝利を与えてしまう国民に欠けているのはなによりも想像力なのでは???
毎度のことながら、私のブログに掲載される文章は、いつも推敲が十分でない下書きのような文章ばかりで、今回もその例外ではない。ピーへの手紙にしては随分と力んだもので、決してピーにわかりやすい文章をしたためたとはいえないものになってしまった。ピー、この手紙をおもちゃみたいに齧ってもいいよ。インコは紙をかじりたがるものだからね。ただし、食べないでね。時々食べてるでしょう。それにしても、狼のインコスレが落ちたのはとても残念。
こころからの愛をこめて、choriより。