「ベルリン、僕らの革命」(酷評してます。さらにラストに言及しています!!)

梅田ガーデンシネマにて。貧富の差が激しくなった消費社会に疑問を持った若者たちのグループが、発展途上国の子供たちが犠牲になって作られているブランド品の不買運動を行っている。そのメンバーに所属する2人、ヤンとピーターは15年来の親友同士。彼らはその活動とは、別にある試みを行っていた。それは、金持ちの家に留守中に忍び込み、家具や調度品を配置換えして、メッセージを残して立ち去るというもの。ブルジョアの生活に反省を促し、恐怖を植え付けるという目的で、金品の強奪などは一切行わない。彼らはメッセージに「エデュケーターズ」という名を残していた。
そんな2人の男性の間にからんでくるのが、ピーターの恋人ユール、ピーターの留守中に借金苦に悩むユールを励ますため、ヤンは、彼女にエデュケーターのことを教えてしまう。しかしそれは意外な方向へと展開してしまうのだった。
これが導入部までのざっとしたストーリー。2000年代の目的意識を持った怒れる若者の話しなのだが、いかんせん、このヒロインがバカ過ぎて、観ていていらつくことこの上なし。あまりにも想像力がないというか、危機予知能力がないというか、忍び込んだ家ではしゃぎすぎだろが!そのあげく、犬に吼えられて大慌てで逃げ出し、携帯忘れるという大バカぶり。それをとりに戻って、住人に顔を見られ、にっちもさっちもいかなくなりと、ここまでバカなヒロインをみたことないというくらいのバカぶりなのだ。
同じバカでも「スゥイング・ガールズ」の女の子たちは、どうしょうもない落ちこぼれなのだが、それはちゃんと作者が、バカな子として愛情込めて描いているから、そのバカっぷりが面白可愛いかったけれど、この作品で最大の問題は、作り手が、このヒロインがバカと自覚していない点にある。もっと貧乏神のような女とか、なにやっても不運な女みたいな描き方をされていたら、またちょっと印象も違ってきたかもしれない。
本来、このヒロインは、搾取された、同情されるべき人物として設定されていたはずだ。彼女に焦点をあてることで、彼女をとりまく、金持ちたちの醜さ、資本主義社会の矛盾点を抉り出して、観客にも共感を与えようとしたのだろう。でも、本来なら、憎むべき、平気で貧乏人からベンツの修理代を請求する大金持ちや、横暴で非情な家主も、ヒロインがあまりにもバカであるゆえに、悪者として、敵として憎むべき存在になりえていない。つまり、このヒロインがちゃんとしてないからじゃん、と思えてきてしまうからである。ちゃんと部屋綺麗にしとけよ、保険はいっとけよ、ぼやっとすんなよ、と、どうせいつもだらしないから、そんなことになってしまったんだろう?というふうに思えてきてしまうのである。これは映画の作りとして絶対にまずいだろう。
そんなヒロインに運命をかえられてしまう男2人は、しかし、実に辛抱強いというか、優しくて立派で感心する。映画がもう一つ狙った、女一人と男2人の「突然炎のごとく」のようなせつなくも甘美な三角関係の世界も、このヒロインでは興ざめで、とても残念だ。
尤も、ラストは、ちょっと気がきいていて、感心したんだけど、これって、彼らのほんの一瞬での勝利にすぎないんじゃないかと思う。顔も名前も割れてしまっている彼らが、このままのうのうと逃げ延びることが出来るとは思えない。1960年代、70年代の学生運動については、詳しくはないけれど、少なくとも、ニューシネマの時代や、70年代のアクション映画作品のラストというのは、バッドエンドのものが多くて、社会の壁をくずせない苛立ちや、失望や失意がそこに表れていたように思う。しかし、その背景には、現実の社会の矛盾に絶望しつつも現状を見据える強さ、そして、そこから出発する未来への夢があったのではないか。だからつらいラストでもきちんと描くことが出来た。でも、今、つらいラストを描くとただ、ただ、本当につらくなるだけ、ゆえに絶望への一歩手前のつかの間の勝利の場面でフイルムを終わらせる必要性があった・・・。それが2000年代の革命ということなのだろうか?