「フラニーとゾーイー」(J.Dサリンジャー/新潮文庫)

フラニーとゾーイー」を読了。以前にもこの本を読もうとしたことが2度あって、2度とも、なぜか途中で挫折していたのだが、一度は学生時代。「ライ麦畑でつかまえて」を読んだ流れで買った覚えがある(今でも実家のどこかにあるはず)。2度目は、映画「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」(ウェス・アンダーソン監督)が封切られたときに、町山智浩氏が、「フラニーとゾーイー」との類似を指摘しているのを読んだ際に。なぜだか、その際も途中で息切れして読めなかったのだけれど、今回、読んでみて、確かに「フラニーとゾーイー」における、グラース家の兄妹たちは、「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」のテネンバウム家の元天才少年少女たちを彷彿させる、いや、これは、自分が先に「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」を観ているので、こんな書き方になっているけど、本当は逆に書くべきなんだろう。グラース家の兄妹が皆、子供時代に「これは神童」というクイズ番組に出ていて一世を風靡したという話しも、ポール・トーマス・アンダーソン監督の「マグノリア」の登場人物の一人を思い出させる。
こうした2000年のアメリ映画作家に引用されるだけあって、この1961年(!)に書かれた作品は、今でも充分初々しく、これまで2度、途中で投げ出してしまったのは、多分にキリスト教を中心とする宗教への記述によるところが大きかったのだが、今回、やはりキリスト教とその信仰に関してはちんぷんかんぷんな部分も多かったとはいえ、物語は実にナイーブかつ温かみに溢れていて、なんだか無償に感動してしまったのだった。
本作は、「フラニー」と「ゾーイー」という二つの短編から成っている。「フラニー」では、世の中のうさんくささと欺瞞が耐え難いものになってしまったフラニーが、久しぶりの恋人との週末のデートを楽しむことが出来ない様を描いている。二人の会話はすれ違って、ついには彼女は卒倒してしまう。「ゾーイー」は、「フラニー」の場面から2日たった月曜日の朝の話しで、兄で俳優であるゾーイーが、フラニーを励ます話しだ。こちらは、とにかくゾーイーの話しが冗長で、宗教の部分以外もかなり読みにくいのだが、彼の辛らつともとれる話し方が、フラニーを励ますどころか、へこませたり、逆切れさせたりする部分などは、家族ならではの会話だと思えてなかなか面白い。家族に勉強を教えているといらいらしてきて、つい喧嘩越しになってしまうあの感覚にも似ている。相手が家族だからこそ、気持ちと裏腹にひどい物言いをしてしまうことって少なからずあると思うんだけど、ゾーイーの言葉のふしぶしには、必死さとほとばしる愛情が感じられる。彼の言葉は、彼等二人だけの物語ではなくて、やっかいで、でも愛すべきグラース家の物語として広がっていく。さらにそれは、読むにつれ、グラース家を超えて、読む人の心の物語となり、フラニーとともに読む人にも大いなる力を与えてくれるのだ。
ライ麦畑でつかまえて」を20代に読んだ時は、これは、きっと、14〜15歳の時に読んでおけばもっと楽しめたんじゃないかと思ったのだが、「フラニーとゾーイー」に感動している今、もう一度読むと、当時よりもちゃんと読めるような気がする。いっそのこと村上春樹新訳の方を読んでみようかな!? この年になってやっとサリンジャーが分かってきたなんていうのはどうなの?とも思うけど。