「サマリア」(ねたばれありますのでご注意下さい)

韓国の鬼才キム・ギドク監督の10作目で、ベルリン国際映画祭で最優秀監督賞にあたる銀熊賞を受賞している。これまで、キム・ギドクの作品は、暴力描写などがえぐそうだったり、非常に痛々しい映画のようなので、避けてきたのだが、この作品に関しては、やはりショッキングな暴力シーンもあるのだけれど、そして、そもそも「少女売春」というものが映画の発端になっているのだけれど、あえて、決定的な暴力シーンや、性描写などはおさえられている。でも全篇に漂う緊張感はただならぬものがあって、なにげない静かな描写に私は常に不安をかりたてられていた。まあ、自分が、心配性なだけってこともあるのかもしれないけど。
ヨーロッパを一緒に旅行するための旅費をためるという名目で、援助交際をしているチョエン、その見張り役をしながら、不安にかられて、「一生頭から消えないかもしれない、こんなことはやめよう」というヨジン。そんな親友に「心配ないよ」と屈託のない笑顔でインドの伝説の娼婦バスミルダを気取るチョエン。警官の取り締まりに気づいたヨジンが、チョエンに携帯で連絡すると、チョエンは下着姿で、非常階段を降りてくるのだけれど、その彼女は、ありえないほどの笑顔で、見ているこちらはその笑顔に軽くショックを受ける。それは決して、悪気もないいまどきの女子高生を嘆くような気持ちではなくて、ただ、単純に微笑む彼女に気持ちを奪われてしまうということだ。いつでも、どこでも彼女は微笑んでいる。その微笑の意味など、考えなくていい、ただ、単に、なんて、衝撃的な、そして、なんて、かわいらしい微笑みなんだろう!
やがて、再び、警官の取り締まりがあり、チョエンに連絡を取るのが遅れたため、チョエンはモーテルの窓から飛び降り、結果、命をおとしてしまう。その窓際に追い詰められている時でさえ、チョエンは、微笑み続けるのだ。こうして、“女子二人もの”の痛くて泣けそうに切なく甘い世界は、第一部で幕を閉じるのだった。
第2部は、チョエンを失ったヨジンが、チョエンの生前の客を訪ねて、奇妙な援助交際を始め、それに気づいた彼女の父親の苦悩を描くという展開となっていく。ただ、父の苦悩も常識とは一風変わっている。彼は、娘を問いただすことは一切せず、相手の男達に接触し、次第に行動がエスカレートしていくのだが、こうしてみていくと、この作品はいわゆる道徳的な観点というものには、あまり関心を持っていないように思える。ここに描かれるのは、物語から紡ぎだす教訓ではなくて、愛する者への切実たる想いだ。この三人の関係性には、親友同士、親子同士の愛を超えたものがあるのは明らかだろう。父が娘に食事をスプーンで食べさせてあげるシーンは、バッカップルの新婚さんにはありえる風景かもしれないけど、決して、高校生の娘とその父親でなされる光景ではない。ただ、だからといって、いわゆる“同性愛“とか、“近親相姦”を連想させるのでもない、純粋な愛、最近あちこちで安売りされている“純愛(ブーム)”とは一線を画した文字通りの純粋な愛があるのみだ。
第3部は、ヨジン父娘(おやこ)の旅行が描かれる。ここで、父と、娘がそれぞれ、孤独に(父は娘の前で)さめざめと泣くシーンが2箇所あるのだけれど、見ていてつくらくて俯いてしまった。二人の乗った車が、山道で立ち往生するシーンで、娘が車の前にうずくまったり、土や石を取り除いているところで、私は、事故が起こって、父は娘をひいてしまうのではないか、という心配に取り付かれてもうはらはらはらはら画面をみやっていた。なぜなら、この旅が、決して、再生のドラマになりそうもないのは明らかだし、どのような結末が待っているのか、そこには悲劇しかないのではないか、その旅が静かで、出会う人が優しくて、互いがおもいやりをしめしても、破滅への道がまっしぐらに続いているに違いないと思えてならなかったから。
そして、実際、一つの悲劇的な結末が描かれるのだが、だが、それは娘の夢であって、彼女が目覚めたあと、本当の結末へと続いていく。ここでは、詳しくは書かないけれど、そのラストは、こちらの想像を超えた思いもしないものであって、見終わった今も、そのラストに囚われ続けている。
最後にチョエン、ヨジンに扮するソ・ミンジョン、クァク・チミンはかなりかわいいです!これをもし日本でリメイクするなら、ヨジンを宮崎あおい、チョエンを蒼井優、父親を三浦友和でやってほしい。