アンナ・カリーナの誕生日についてと「アメリカの夜」(阿部和重著)。

前々回の日記でアンナ・カリーナも9月23日生まれと書いたところ、id:yoneyaさんから22日ではないでしょうかというメールをいただきました。ネットでアンナ・カリーナで検索してみるとやっぱり22日となっています。阿部和重は「アメリカの夜」の中でジョン・コルトレーンとならんで、アンナ・カリーナを「秋分の日の人」と書いているのですが、「9月23日生まれの有名人」として検索したものの中には、アンナ・カリーナを23日生まれとしてあげているサイトもありました。22日というのが本当なのではないかなと思うのですが、このへんはどうなんでしょうか。yoneyaさんもメールで書かれていたように「時差のせい」ということにしておきましょうか。


さて、そのアメリカの夜、yoneyaさんもid:yoneya:20050208で書かれているとおり、冒頭からブルース・リーの考察が延々となされている。元ドラゴンの一人としては、非常に面白い書き出しだ。しかもこの小説、あまりにも私の趣味に近いことばかり出てきて、ちょっと軽く悲鳴をあげたくなるような感じなのだ。さすが、解説の佐々木敦氏は、そのあたりのことを“当時かなりのシネフィル映画評論家であった僕にとって、この小説はとてもよく「わかる」ものであり、また非常に「痛い」ものであった”と表現している。この小説の主人公は、仕事中に本が読めるというバイトについているんだけど、実は、私も学生時代、仕事中に本が読めるバイトをやっていて、早い話がコンビニの店員で、本当〜〜にお客さんが少ない上に、店長もいつもその時間はいなかったため、さぼって本を読んでいただけなのだが、そこのバイトが結構長続きしたのは、一重に本が読めたからなのだった。だから、主人公が物語の途中で、本を読むのを注意される場面はひとごとでない絶望感を感じ、主人公にいたく同情してしまう。さらに、シネフィルの問題、生まれてこのかた、ず〜っと関西に住んでいるのだが、私、アテネ・フランセ文化センターにも池袋の文芸座にも行ったことがある元シネフィル。さらにさらに、主人公たちは、自主映画を作ろうとするんだけど(という書き方は正しくないかもしれないが)、学生時代映画研究部に所属していて、自主映画の製作とか上映会にも少なからず参加していた元8ミリ映画ファンでもある。もう痛くて痛くて(笑)。でも、この作品は、そういったものを背景にはしているが、若き日特有の「他者より抜きんでいたい」とか、早く「特別なものになりたい」というあせりと願いが、一見風変わりな体裁をとりながら、実にピュアに描かれているのだ。阿部和重の文体は、一見、こいつ少しふざけて書いているだろうと思わせるような思わず笑いを誘う調子をとってみたり、「アメリカの夜」のように、語り手を随分と技巧的に描いて、一見ややこしいように描いているようにも見えるのだが、あるいは、短編集「無常の世界」(新潮文庫)の中の「トライアングルズ」のように明らかに不道徳な登場人物を描きながらあくたれてみせるのだが、それでも、「本当のもの」を真摯に追求しようとし、じたばたあばれて必死で追求している人間の姿がそこには描かれていると思うのだ。