「イノセンス」(ネタバレアリ)

私は押井守作品は、劇場では「うる星やつらビューティフル・ドリーマー」しか観ていないし、「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」も「イノセンス」を観てからビデオ借りてきてみたくらいの押井ワールドにはあまり縁のない観客なんだけど、「イノセンス」はとても面白く観ることが出来た。
 なんといったって、映像の圧倒的な迫力と濃さにゾクゾクと興奮を覚えずにはいられない。日本のアニメが描く空間のどこまでも果てしなく広がるかのように見える世界観は、中華圏映画の持つ壮大さを凌駕するものだ。全編にちりばめられる哲学的なセリフも知的な講義でも聞いているみたいで、妙に心地いい。内容を理解したかどうかは別にして、こういうのって結構好きなのだ。コンビニでの銃撃戦はそのカメラワーク(とアニメでもいうの?)にしびれ、北端の街で起こった「うる星やつらビューティフル・ドリーマー」を彷彿させるような展開にも胸躍る。で、まあそこまでの映画だったら、「あ〜かっこよかった」ですませるのだが、気になるのはラスト近くの、ゴースト(魂)コピー用のカプセルに送り込むためロクス社と癒着しているヤクザが誘拐した少女をバトーがカプセルから救い出すシーン。
 本来なら、救出された少女は、抱きしめられる立場にあるはずなのだ。「イノセンス」以外のほかの作品なら、おそらくそれがクライマックスになるだろう。が、ここで、少女はバトーに厳しく罵倒されるのだ(ん?洒落じゃないよ)。「だって、人形になんてなりたくなかった」と言う少女に対して、バトーは、「操られて暴走する人形のことは考えなかったのか」と言い放つ。私はこのシーンにポカーンと口をあけずに入られなかったのだが、一方で、そこで押井守が言わんとしたことは、なんとなくわかる気がする。
 ここで急に個人的な話になって申し訳ないのだが、幼少の頃、私は“人形”というのが怖くてたまらなかった。とりわけ、デパートのマネキンが怖くて、泣く私を親があわてて別の場所に抱いて移動すると、そこにもマネキンがいて、ギャーっと叫んだりだとか、リカちゃん人形の類も恐怖の対象で、友だちとのお人形遊びが苦痛でたまらなかったという記憶がある。やがて、そんな恐怖心もいつの間にか消えてしまったけれど、ある意味、押井守の“人形愛”と私の幼少の頃の“人形嫌い”はどこかに相通じるものがあるのではないか。
 最近では、例えば映画「ツインズ・エフェクト」で、ツインズの二人が、くまのぬいぐるみを取り合いして格闘するシーンで、両腕をひっぱりあう二人がくまのぬいぐるみを引き裂いてしまうのではないかと真っ先に心配したり、「アップタウン・ガールズ」でブリタニー・マーフィーが豹のぬいぐるみにはさみを入れるシーンに心痛めたりしていたりする…(ブリタニーは、「ごめんね」と言っているのでまあ許す)。
 こういった思考というのは、一般的には“幼稚”という言葉で片付けられるものである。常識はずれとも語られるものでもある。
で、ここでまた話が飛んで、先日読売新聞の夕刊に確か“ジブリの挑戦”というタイトルで、押井守のインタビュー記事が載っていて、「イノセンス」制作時に押井の愛犬が腰を抜かして、制作が中断になったが、犬の症状が回復して、そのおかげで、この作品を完成することが出来たという話が載っていた。これも、一般的には、“随分と金と労力をかけた作品をたかが犬一匹で台無しにしようというのか”という見方が大勢だろう。だが、もし愛犬が悪い状態のままなら、この「イノセンス」を押井は未だに完成していなかったはずである。
 このエピソードからも、少女が抱きしめられないこの場面に、価値観の順位への疑問というものが込められていると推測できる。人間だからといって真っ先に抱きしめられて良いものではない。たかが人形とか、たかが犬と片付けられてしまうこと、幼稚だとか、常識がないと切り捨てられてしまう、一般的見解=常識というものへの激しい反発なのである。
 あんぐり口をあけつつも、私は密かに、共鳴しているのである。