「カナリア」に関する覚書

この文章は未完です。自分の忘備録的なものですので、ご容赦を。
映画「カナリア」に関しては、公式HP http://www.shirous.com/canary/index.html をご参照ください。

ストーリーだけ、引用。少年の名は光一、12歳。母に連れられてカルト教団ニルヴァーナ》の施設で妹とともに数年を過ごしたが、カルト崩壊後、関西の児童相談所に預けられた。だが祖父は、光一より4つ年下の妹、朝子だけを引き取っていく。母の行方はわからないままだ。光一は偶然助けた少女・由希とともに、引き離された妹と母を取り戻すため、東京にいる祖父の元へと向かう。
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児童相談所を脱出した光一(石田法嗣)が、ある廃校で、一本のドライバーを拾う。このドライバーをみて、私はとある映画の拳銃を思わずにはいられなかった。それは’80年代に特集上映されたスイスの映画監督アラン・タネール監督の「メシドール」という作品で、2人組の女の子の楽しいはずの旅が、鬼畜親子のせいでだいなしにされかけ、彼女たちは護身用に銃を手にすることになる。彼女たちがそれを手にすることで、旅はどんどん不安なものになっていく。冗談まじりに人に向けられる銃口。観ていて、胸騒ぎがしてたまらなかったのだが、予想通り、映画は悲劇的なラストへとなだれ込んでいく。
そんなわけで、私はこのドライバーにも不吉な予感を抱かずにはいられなかった。もっとも、このドライバーは、まずは、由希(谷村美月)の腕にはめられた手錠をはずすというふうに有効利用される。だが、その後、光一はずっとそのドライバーで石を削っている・・・のではなくて、ドライバーの先を石で削って鋭利なものにしていく。当然、それが、人間の生身の肉体を傷つけるものになっていくのではないかと、観ていてハラハラしてしまう。ところが、一瞬、そういった瞬間は訪れるものの、このドライバーは人を傷つけない。そしてラストはなんとも力強く、これまで観たこともないような息を呑むようなシーンを迎えるのだ。
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“頼るべき大人のいない子どもが、犯罪に走るのはある意味いたしかたがない”というのは、私が、スピルバーグの「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」の感想を述べたときに書いたフレーズなのだが、つまり、それは、「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」では、16歳で親元を離れたレオナルド・ディカプリオが、パイロットになりすますという詐欺を働いて、生計を成す点をさす。また、この作品に一部シチュエーションが似ているケンの・ローチの作品「SWEET SIXTEEN」では、少年の母親は、男に騙されて刑務所にはいっていて、一人で暮らす彼は麻薬のディーラーとなってしまう。彼らを支えるべき親=大人は生活が崩壊しており、育児という責任を放棄している。子等は生きていくために犯罪に頼らざるを得ない。それを是とするわけでは決してない。してはいけないことである。だが、責められるべきで恥ずべきなのは彼等よりも、まず大人たちだ。
ところが、是枝裕和「誰も知らない」を観て驚いた。母親の育児放棄のため、残された子どもたちは、彼等だけでの生活を余儀なくされている。最高年齢は長男の十二歳である。生きていくために、彼は犯罪に走るのか?答えはノーだ。柳楽優弥 扮する長男は他の普通の子どもたちがためらいもなくする万引きを決してしようとしないのだ。援交などでの資金稼ぎも嫌悪する。もっとも、一番下の妹が瀕死状態になった時に断腸の思いで、薬局から、医療品を盗むのだが・・・。私はこの映画のモデルとなった悲惨な事件を思いつつも、その中からこれほど、ピュアな魂を描き出したこの作品にとてつもなく感動してしまったのだが、今回の「カナリア」でも、少年少女は生きていくために犯罪を犯さない。彼らの状況がどんなにつらくとも、無一文でも、どんなに空腹でも。
とはいえ、「カナリア」の場合、光一が万引きを拒否するのは彼が信仰する宗教団体の教えをかたくなに信じている由縁である。しかし、最初は万引きをしようとしていた、カルト教団とは無縁の由希もまた盗みをしようとしなくなる。生きていくための盗みはカルト教の教えであるいかんにかかわらず、絶対的「否」として、提示されていくのだ。
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この作品の素晴らしい点は、オウム真理教をモデルにしているのだが、決して、特殊な話ではなくて、今の日本の抱える家族の問題として、作品を構築しているところだと思う。今の子どもの悲劇の原因がその親の責任であると同時にその親を育てた祖父、祖母の責任であるという点がきっちり描かれている。



(で、このあと、「クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」なんかを引用しつつ、最終的には、大人たちの都合に勝手に振り回される子どもたちが、今、単なる悲劇の犠牲者となるのではなく、大人社会から外れた新しい何かとして立ち上がっていく、なにかまったく違う価値観、世界が生まれていくようなそんな衝撃的な強さに溢れたラストについて言及したいと思ってます)「生きていく」。!。