「きみに読む物語」


1940年、ノース・カロライナ州シーブルック。家族とともに夏休みを過ごしにこの地にやってきたティーン・エイジャー、アリー・ハミルトン(レイチェル・マクアダムス)は、地元の材木工場で働く青年ノア(ライアン・ゴズリング)と出会い、恋に落ちる。しかし、アリーは、裕福な家庭の一人娘で、彼女の両親は、2人の交際を認めず、強引に彼女をチャールストンに連れ戻してしまう。
よくある悲恋ものという出だし。とはいえ、“身分違いの恋” “両親の反対(妨害)”というオーソドックスなメロドラマ的要素はあるものの、ここのところの韓流ブームのようなメロドラマとは一線を画する映画になっていると思う。多くのメロドラマは主に惹かれあう2人の仲を裂く外的要因に様々な出来事が用意され、すれ違いにつぐ、すれ違いなどが用意されて、運命のようなものに翻弄される二人が描かれ、その障害を越えてでも、尚、恋する2人というものが、一途で美しいものとして、人に感動を与えるわけだが・・・。
きみに読む物語」に関しては、ずっと個人の主体性が重要なものになっている。「君自身はどうしたいんだい?」とノアが、アリーに尋ねる場面があるんだけど、アリーは、両親が描いた人生を歩むべく育てられ、それに従おうとしていて、ノアは、そんな彼女のことを“freeでない”と表現する。 いわば、この物語は、そんな“freeでない”彼女が、自分はこうしたいという意思でもって、人生を決断する物語となっているといえる。
そのあたりの個人の意思と主張というのは、ものすごくアメリカ的であり、またそれを認める余裕のある周辺というのも、また実にアメリカ的である。尤も、実際のアメリカ社会というのは、そんなに物分りがいいものではなく、もっと保守的なものに違いないのだが、少なくとも、アメリカ映画というのは、こうした“free”を描き続けているわけで、そんな部分に我々はいつも魅了されてしまうのだ。
まあ、それでも、へたすると我が儘な娘としてしかとれなくなるヒロインをレイチェル・マクアダムスが、活き活きとチャーミングに演じていて、憎めない愛らしいヒロイン像を作り上げている。この人かなり、可愛い女優さんなんだが、結構芸達者とみえて、日本ではビデオスルーだったロブ・シュナイダー主演の「ホット・チック」(’02)では、外見は可愛い女子高生だが中身は中年の銀行強盗というけったいな役を演じていて、スケベ根性でよってくる男どもを獰猛な目つきで蹴り倒していて笑えた。ああ、早く彼女主演の「ミーン・ガールズ」が観たい!
ところで、「きみに読む物語」は、実は、もう少しややこしい二重構造の話しになっていて、その点でも「世界の中心で、愛をさけぶ」に比べられたりもするのだろうが、「セカチュー」の方が、「忘れられない過去」の話しとしたら、こちらは、素敵な思い出を忘れてしまう(アルツハイマー病が原因)ことを描いている。どちらも、過去の若かりしころの話しだけでもいいんじゃないかと思ってしまわなくもないのだが、どちらの作品にもそれが「ノスタルジー」であることが、重要な役割りになっているのは確かで、ノスタルジーだからこそ、心打たれているのもまた確かだ。