私が後藤真希を好きになった理由と「はねるのトびら」

ヲタを名乗るほど、その人を好きになるときって、なにかしらきっかけがありますよね。私の場合は、2001年の秋頃、ごっちんが、ニッカンスポーツのインタビューを受けて辻、加護を怒ったことがないという発言をしていたころからだんだんと気になりだし、注目しだしたのが直接のきっかけだったと記憶します。どうやら彼女は、世間のいわゆる「ゴマキ」というイメージと本当の自分が違うということにジレンマを抱いているらしく、そういう発言を読んでとっさにジャン・リュック・ゴダールの「彼女について私が知っている2,3のことがら」という映画の中の“ある巨大な溝が、私が私自身についてもっている主観的確信と、他人たちが私についてもっている客観的真実とを分けへだてているが故に、私は一方では自分を無罪と感じながら、他方では自分を有罪とみなし続けているが故に、私の日常生活は個々の出来事によって、変形されてしまうものであるが故に、私は自分の意思を伝達することに絶えず失敗しているが故に・・・”という言葉を思い出して、凄い、これってゴダールじゃん、と興奮したのでした(もとシネフィルなもんで、すみません)。こういうことって、誰でも多かれ少なかれ悩むことだと思うし、実際自分も、学生のころに、悩んだこともあったので、あの天下の後藤真希が、普通の人と同じ悩みをもっているだなんて、と思ってしまい、そこからぐっと後藤真希に興味を抱くことになったのでした。もともとモーニング娘。には好感を持っていて、「ASAYAN」の第3期オーディションなども観ていて、そのころから、ごっちんのことを、この子、面白いなと好意的に見ていたのですが、それはやはりいわゆる「ゴマキ」イメージに立脚したものであり、注意してみていると、これまでに見えてこなかったいろんな面がどんどん見えてきて、この子はこんなに可愛い一面があるんだとか、こんなにがんばりやさんなんだとか、驚かされることが多く、そこから気付けばどんどんどんどんヲタの道へ、まっしぐら。他にも理由はあるんですけど、それは省略。
そんなわけで、ごっちん自身が、「ゴマキ」という言葉をあまりよく思っていないらしいということもあり、私も、マスコミの「ゴマキ」連呼は快く思わず、可愛い「ごっちん」がやっぱり凄く好きだったりするのですが、いつの間にか、ごっちん自身が、「彼女について〜」的悩みから脱却したように思えるのです。先日の「はねるのトびら」ゲスト出演を見て、それを確信しました。「ゴマキ」という言葉に付属する様々なイメージすら手玉にとるというか、「ゴマキ」を軽やかに演じてみせるというか、なんだかそんな余裕すら感じてしまったのです。コントのリズムを崩さない軽やかなアドリブ、この子はまた変わったなと成長したな思わずにはいられませんでした。
おそらく、この変化の背後には自分自身に自信が持ててきたというのもあるだろうし、また、「わかっている人はわかってくれている」という確信があるからじゃないかと勝手に推測しています。
とまあ、「はねるのトびら」なんていう、コント番組、「ははは」とただ笑ってればいいのに、こういう文章を書いてしまうという、ヲタって本当に・・ってこんなのは私だけか!?


JJbis」のごっちん、ちょっとふっくらしました?今回のおもてなしは「神戸プリン」らしい。早速買って来よう。