「珈琲時光」(ねたばれあり)

昨日紹介させてもらった「ジャッピー!」20号には、侯孝賢監督のインタビューもあり。さて、「珈琲時光」、これは、侯孝賢小津安二郎生誕100年記念として作った小津作品へのオマージュとのこと。以前にも書きましたが、私は後藤(真希)ヲタになる前は、小津ヲタでした。どこをどう結びつければ、小津から後藤にいたるのか、さっぱりわかりませんが、う〜ん、あえて探せば、「東京下町」? いや、まあそんなことはここでは追求する必要はないので、割愛しますが、侯孝賢監督も非常に好きな監督で、何かとても幸せな気持ちで作品を観ていました。
 映画を観ながらいろんなことを考えたけど、どれも全然たいしたことじゃない。例えば、電車を捉えた風景が圧倒的に多いので、電車マニアの人が観たらたまらんだろうなあとか(と思ったら、浅野忠信扮する神田の古書店の2代目が電車マニアという設定)、一青窈扮するフリーライターの女性は、これでちゃんと食べていけるのかなとか、脚本は誰か日本人が書いたのだろうかとか(実際は、侯孝賢と朱天文の二人であるらしくちょっとびっくり)、そんなことなのだが、退屈していたのかというとそうではなく、本当に何か普段ぼーっとしている時の感覚で映画に入り込んでいたんだと思う。その心地よさは、例えば、一青窈が、実家に帰っておもいっきりだらけているシーン。ああ、これ分るなあ〜と妙な共感を覚えた。これが男性の場合だとまた違うのかもしれないが、普段親元を離れている分、たまに帰るとすっかりなまけものになって親に甘えてしまう感覚というのはありませんか? この映画では、一青窈は結構複雑な生い立ちという設定のようなのだが、彼女がこれほど親元で、のて〜とくつろいでいるのを観ると、この親子は、とてもうまくいっていることがよくわかる。この、のて〜感がたまらなく気持ちいい。
で、一青窈は、実は妊娠していて、相手は台湾の人で、現在タイにいるらしく、けれど、自分は結婚する気はないという。、彼女の両親(小林稔侍と余貴美子)は、どう声をかけてやったらいいのかわからず、やきもきしている。まさに、小津が現代に生きていたら取り扱っていそうなテーマといえる。さすがに原節子が、子どもが出来たけど結婚はしなくてよ、なんて映画は当時は到底つくりえなかっただろうし、想像もできなかったろうが、今では寧ろ普通に結婚するよりもなんだかありきたりな設定に思えるくらいいわば現代的である。
また、侯孝賢は、子どもは生むが(結婚せず)一人で生きていくという主人公像に、小津作品に流れる「結局人間は一人」という思想を反映しているように思う。小津作品は単なるホームドラマのように思われている面もあるようだが、私が思うに、作品には「人間は所詮一人」というぺしミスティックな思想と、「一人でいきていかなければならない」という硬い決意のようなものが流れているのだ。年頃の娘が嫁いでひとりぼっちになった寂しげな老人を捉えたシーンで終わる映画、「秋日和」や、「秋刀魚の味」、葬式のあとのカラスの声でなにやら不吉な感じで終わる「小早川家の秋」などなど。ただし、この一人というのは、ただ単にむなしいというのではなくて、子供に頼らず、一人でいきていかなければならないという意思、過去の日本の因習から脱したところでの、新しい日本人の生き方を肯定的に捉えたものだといえる(それゆえに小津が私は好きなんだけど)。侯孝賢は、その小津の思想を現代の若い女性の生き方に反映させて描いてみせたのだ。
 しかし、この映画のラストシーンは実に暖かい。広くて人も多い町で、ちゃんと誰かが誰かをみつけて出会っていく、所詮、人間は生まれる時も死ぬ時も一人だが、誰かがそっと見つけ出してくれて、そばにいてくれる、一青窈浅野忠信が、電車から降りて駅のホームで二人でいるラストシーンに私はそんな、侯孝賢の想いを感じてほろっとしてしまった。