「自転車でいこう」

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十三の第七藝術劇場に「自転車でいこう」を観にいく。李復明(リ・プーミョン)。大阪の生野区に住んでいる知的障害者の20歳の青年。自転車で町を疾走する彼を、カメラかついで、自転車で追いかけて撮ったドキュメンタリーだ。障害者を扱ったドキュメンタリーといえば、観る態度としてかまえがち。広い心を持とうと、多少偽善者ぶって見たりしがちに思うけれど、この映画が映しだす世界は、もっとリアルに、もっと身近に、もっと面白く、よりパワフルにエネルギッシュで、偽善の心なんてどっか吹っ飛んでしまう。その世界に引きずり込まれそうになる。
 現に私は映画を観ながら、イライライライラしていた。なぜなら、プーミョンが一筋縄ではいかない青年だからだ。はっきり言えば、“聞き分けが悪い”。映画はもっと辛らつな言葉で表現する。“プーミョンには狡猾な面があり”と。障害者だから、かわいそうだから、こんなこと思ってはいけないんだなんて思わせないのは、映画の中に映し出されるプーミョンにかかわる人々がプーミョンのことをようく理解した上で、彼を特別扱いしない(=甘やかさない)からだ。プーミョンが働いている福祉作業所の人々、プーミョンが毎日訪れる学童保育所「じゃがいもこどもの家」のスタッフたち。プーミョンと同年代の彼らは、我を通そうとするプーミョンに根気よく、なぜしてはいけないのかを理解させようとし、約束を守らなければ、どうなるのかを丁寧に説明し、時には約束事が守れないプーミョンをその場から追い出す。社会生活をして行く上で必要な最低のルールを諭し、彼の自立を応援するのだ。それは本当に根気のいることで、彼らは建て前じゃなく、真摯にぶつかりあっている。時にあれほど私をイライラさせてくれたプーミョンが、あまりにも思うようにいかずしょげている姿を見ると、「そこまで言わんでも」と逆にプーミョンに肩を持ちたくなってきたりもする。観ているこちらもすっかりプーミョンの世界に引きずり込まれてしまっているのだ。それでも彼はめげず、生野の町を自転車で駈け回り、昨日追い出された場所を笑顔で訪れ、他人と関わり続けるのである。そのバイタリティにはただただ圧倒される。
 そしてそんなプーミョンにひっぱられるかのように、、カメラもまた、より多くの人に少しづつ、視線を注ぎ始める。プーミョンについてどう思うか、という質問からより一歩前進して、たこ焼き屋さんのおばさんや、フォークリフトを操縦するおじさんの歩んできた人生を聞き、自転車屋さんのおじさんがいかに自転車を大切に思っているかを聞き出していく。健常児と障害児を一緒に保育する「じゃがいもこどもの家」に通う重度の障害を持つ少年とスタッフの関わりをじっと見つめる。一歩一歩、カメラが、東京で活動していた監督が、生野の町に踏み込み、馴染んでいく様子が伝わってくる。
 プーミョンが福祉作業所のスタッフと衝突を繰り広げる最大の原因となっていたホワイトボード。そのいきさつはここでは省くが、執念のようにホワイトボードを見つけ出したプーミョンが、そこに描き出したのは自分の大切なものを字で埋めつくしたなんとも味わい深い作品だった。この作業所で作っているTシャツのイラストも彼だといい、私はプーミョンは営業職でなく、“クリエイター”に向いているんじゃないかと思った。彼の営業振りはとてもとても給料を貰えるようなものではないからだ。でもきっと彼は“営業に行く”ために自転車に乗るのが大好きなんだろう。そうして、風をきっているうちに、営業のことは忘れていってしまうのだろう。時に、フォークリフトに目が行き、時に大声で叫びながら、自転車でドンドンドンドン行くのだろう。