「タッチ」

ラストの甲子園行きを賭けた決勝戦の描き方は多分、漫画(アニメ)を原作にした作品としてはこれが妥当なんだろう。寧ろ正しいともいえる。でも、やっぱり、同じ長澤まさみが出演した作品「ロボコン」の決勝戦とどうしても比べたくなる。なるべくカメラを割らず、実際にロボットを操る様を引きの画面で見つめさせること。やはりそっちの方が圧倒的に映画なんだと思う。でも、おそらく犬童一心監督は「ロボコン」も見ていたはずだし、「ロボコン」的決勝戦をやりたいとも思ったはずだ。きっとこの方法を選択した背景にはいろんな事情があったのではないかと勝手に推察しているのだが、犬童監督がある意味妥協してそれを撮った背景にはその部分は妥協したとしても自分らしい作家性を別の場所で表現できると考えたからではないだろうか?
犬童作品の多くは、「家」がキーワードといってもいいくらい、重要な要素となっている。「金髪の草原」でのお屋敷、「ジョゼと虎と魚たち 」のジョゼの家、「死に花 」の老人ホーム、「メゾン・ド・ヒミコ」のゲイの老人ホームなど、その場所へ誰かが入り込むことで、また、その場所から誰かが去ることで物語は始まり、動いていく。
「タッチ」の主要キャラである、上杉達也 上杉和也 の兄弟と 浅倉南 は隣同士に住んでいる幼馴染だ。家が隣同士といえば、古くは「俺は男だ」のように(それにしても古い!)、2階の窓から、互いの部屋が見えてやりとりが出来るというパターンが多い。「アメリカン・ビューティー」などもその一例だろう。それだけでも十分にコミュニケーションをとる場所となるのに、さらに、浅倉家は喫茶店を営んでおり、勿論そこはいろんな人が集まってくるコミュニケーションの場として存在する。さらに学園物ということで、学校、グランドという空間もきちんと存在し、十分すぎるくらいの舞台が整っているのだが、それにプラスして、この両家は、やんちゃな三人のための部屋(一部屋だけのプレハブ?)を互いの家の敷地内にお金を出し合って建てているのだ! これが原作どおりなのか、それともわざわざ犬童監督が設定したものなのかは、原作の漫画もアニメもろくに知らない私には判断できないのだが(で、今日、古本屋へ行って、一巻だけでも立ち読みしてこようと思ったのだが雨が降ってたので確認できなかった)、もし、原作どおりなら、この部屋という存在があったから犬童監督は監督を引き受けたに違いないのだし、もし原作になければ、あえて作ったということなのだ。
3人の子どもたちのために作られたその部屋に彼等は机をいれ、朝の通学の準備をし、夜はそこで宿題をする。しかし、その空間は、3人が揃っていればよいのだが、和也と南、達也と南の二人きりとなるともう危うい場となって、本来とは違う性格を帯びてくる。大人たちは彼らが大人になっていくことに未だに無自覚で、その部屋がゆっくり崩壊していくことに気づいていない。部屋は2時間弱の上映時間の中で、大きくその様子を変えていく。まさに「家」の作家犬童的な描写といえよう。
それにしても、長澤まさみがよい!こうしたみんなのアイドル的な優等生役が本当によく似合う。プロテクターをつけたキャッチャー姿には惚れ惚れしてしまった。「世界の中心で、愛をさけぶ」を見た時に、これは「長澤まさみのための長澤まさみの映画」と書いたけど、今回も同じことを繰り返したいくらい。
ただ、ちょっと気になったのは、3人が三角形を作って、キャッチボールをするシーンで、明日に甲子園を賭けた決勝戦を控えている和也に素手でキャッチボールをさせるところ。これはちょっと無神経だろう。怪我したらどうするの。それと、誰かパンチ(犬)を散歩に連れていって!