「ハウルの動く城」(ねたばれありますので注意)

ハウルの動く城」を面白くみた。まるで子どもに帰ったみたいに、わくわく、わくわくして画面を追い続けた。こんなにドキドキして心から楽しめる映画って久しぶりのような気がする。ヒロイン、ソフィーといつのまにか同化して、ハウルの美しさに心とらわれ、次から次へと現れる不思議なものにいちいち反応し、台詞一つ一つに心躍った。
それは「千と千尋の神隠し」を見た時とはまたちょっと違った感覚である。「千と千尋〜」は、その圧倒的な“想像力”に度肝を抜かれ感服した。けれど、今回の「ハウル」は、よりキャラクターに近い感じにのめり込んでしまっている自分に気付く。ん? 10歳の女の子より、90歳の老婆の方が感情移入しやすいんだろうって?いやあ〜さすがに90歳と比べるとまだ10歳の方に年齢は近いんだけども・・・ってマジレスしてどうする!?
一つには、主人公が90歳ということで、宮崎アニメの特徴の一つ、急な上昇と下降がぐっとおさえられていることが要因としてあげられるだろうか?長〜い、高〜い階段を登ることが、非常にスリリングなアクションになっている。長い階段を登るだけのことがこれほど面白いとは! 過去の宮崎作品ならこんな階段などひとっとびだったろう。しかし急浮上、急降下のかわりにあるのは、大いなる足踏みだ。そう、まさにそのような足踏みなら見ている自分たちにも出来そうだ。そうした運動の身近さが、これまで以上に作品にのめりこむ原因になっているように思われる。もっとも、宮崎作品におけるヒロインの“足腰の強さ”はあいも変わらず健在で(例えば「未来少年コナン」のラナなどは、狭い足場のないところで踏ん張っておくような目に再三あわせられている)、ソフィーは、やたら重い犬を抱えて階段を登らされ、笑えるのである。まあ、それにしても、最初に観た時に、げっ!この顎は! 首は?と二歩も三歩もあとずさりさせられた荒地の魔女の容貌、その肥大したたるんだ余った肉がさらにブルブルと崩れて揺れる様は、どんな戦闘シーンよりもスペクタクルだ!


この物語が魔法を扱っているファンタジーにもかかわらず、身近なかんじのするもう一つの要素は、“戦争”の存在だ。「ハウル」で描かれる舞台には常に軍隊が存在している。ここで描かれる“戦争”に関して、わかりにくいという意見を聞くのだが、確かに、なんのための誰の為の戦争なんだかが、画面からは見えてこない。けれども、あえて余分な説明をしないことが、現実の戦争の曖昧さを示唆しているように思える。この地球のどこかで、必ず戦争がある。それは遠い対岸のことではなくて、いつ自分や、自分の愛する人をおびやかすかわからない。まさに今、私たちは、そんな不安だらけな世界にいる。恐ろしい権力がある。間違ったものが罰せられない世の中がある。しかし、個々がいつもそんなふうに怯えているわけではない。ささやかな楽しみをみつけ、日々生きている。
こうした現代人の生活が、とてもわかりやすく描かれているんじゃないだろうか? ハウルは戦場におもむいて傷つくが、ヒーローがあるいは、ヒロインが「敵」に立ち向かって行こうとする武勇伝にはならない。魔法使いですら限界があるのだという描き方がなされ、かつそんな環境の中で、しっかり人々が生活しており、愛する人を守ろうとする姿をも描いてみせるのだ。
 

千と千尋の神隠し」ではラストに違和感が残った。ラストに冒頭と同じ千尋千尋の両親のフィルムが使われるのだ。宮崎監督はこの作品を、「少女の成長物語にしたくなかった」と語っているのだけど、 成長した、あるいは何かが変わった千尋の表情はやはり見ておきたかったなあと思う。千尋は自身が体験した不思議で豊かな事柄を、何の反省もない両親に対して、密やかに胸にしまっておくことになるのだろう(えてして子どもの成長とはそのようなものなのかもしれないが)。
その点、「ハウル」の方は、出会った愉快な仲間たちとず〜っと一緒だ。明らかに母親にも妹にも似ていないソフィーは、どうやら不幸な子らしい(原作では母親はとんでもないひどいやつだということだ)。魔法にかけられ、老女になることで、つまらぬ人生から解放されたソフィーは、実に活き活きいしていて、そしてまた、物語の終わりにも、もといた世界に戻らなくてもよい。「千と千尋」のラストでひっかかっていた事柄から、この作品で解放された、そんな気分である。